幻想の横断

幻想の横断は、去勢を超えることに関わっており、神経症を超えるユートピア的な契機を持っている。すなわち去勢された主体は、他者の欲望を主体化していない主体であり、他者へと症状として従属することによって苦しめられ続け、しかしそこから二次的利得を得ている主体である。症状は、他者に宛てられた、主体についてのメッセージとして理解することができる。主体は自分のメッセージと存在が意味を持つようになる場所・目的地から分離できるまでは去勢されたままなのである。このようなラカンの文脈では、去勢は、生物学的器官やそれへの脅威とは明らかにまったく関係がない。それにもかかわらず、特殊な文脈では、そういった脅威によって、男の子はお気に入りの快感対象としての母=他者への愛着から分離できるようになる。しかしその脅威は、去勢を乗り越えるために要請されるさらなる分離を引き起すことはできないように思われる。最初の種類の分離、すなわち幻想によってもたらされる分離を通して、ある種の存在が獲得される。それにもかかわらずラカンは、消失について、つまり、対象原因が際立ってくるにつれて神経症的主体が幻想のなかに消えていくことについてまたしても語っている。 不幸というものについて

欲望が設立される

主体は単にひとつの潜在性、満たされるのを待っているだけの象徴的なもののなかの単なる仮の代理としてではもはやなく欲望する主体として到来する。分離は、そのなかで主体がいまだ仮の代理にすぎない他者から、主体を放逐することになるのである。このことを少なくとも男の子のエディプス・コンプレックスからの出口についてのフロイトの見解と結びつけることができる。フロイトの考えでは、そこにおいて、父による去勢の脅しが、ついには母=他者から子どもを離脱させる。そのようなシナリオにおいて、子とともは母=他者からある意味放り出されるのである。この論理的には認識可能な契機を、個人史における何らかの特定の時系列的契機として特定するのはきわめて困難である。そのように特定しようとするなら、おそらく多くのそうした契機が起こり、その各々が以前の諸契機に積み重なるのでなくてはならない。この論理的な契機は、ラカンのメタ心理学において根本的なものであり、彼の代数における決定的な諸要素のすべては同時に登場する。他者の欲望のなかで本質的に解読できないままのものを子どもが把握しようとするなかで子ども自身の欲望が設立される。